少女時代、目にした竹久夢二の美人画は、古き良き時代の面影があるような気がしてなりませんでした。
なぜかと問われるとわたしにもよくわからないのですが、大正という昭和のひとつ前の時代の空気感に昔も女性たちは華やかな存在として位置づけられていたことに心地よい安堵感を覚えたものです。
いつの時代も根源的なものは変わらないんだなというようなものでした、おそらく。
少女時代のわたしは本と映画をこよなく愛する、ありふれたどこにでもいる美人には程遠い、メガネ少女でした。
当時、住んでいたのは福岡県北九州市というところでしたので、都会への純粋な憧れを常に抱いているような、そんな少女でした。
奇遇にも夢二も夢二のお父さんも北九州市に一時期、住んでいたようです。
なんでも八幡製鉄所に勤めていたとか。
時代が違えば、わたしの祖父と同僚だったかもしれません。
夢二の美人画はいまでこそ有名ですが、多くの芸術家がそうであるように評価されたのは彼の死後のことです。
当時、画の報酬は一枚、2円か3円程度のものだったらしく、決して豊かな生活ではなかったようです。
それでも夢二は生き生きと明治から大正、昭和という時代を生き抜いていきます。
多くの著名な作家や音楽家、出版人、恋人たちとの交流も今回、訪れた『竹久夢二美術館』では窺えました。
その華麗な交流から生まれた作品の数々。
夢二の繊細な筆致と感性が最大限に発揮されたものたちでした。
竹久 夢二とは
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年9月16日 – 1934年9月1日)
ウィキペディアより
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。
大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。
また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。
文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。
また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
根津にある『竹久夢二美術館』
夢二は『夢二式美人』と呼ばれる美人画をはじめとした数々の輝かしい業績を残しましたが、これらの作品をコレクションしている美術館があります。
その名も『竹久夢二美術館』。
併設されている『弥生美術館』と二館、見学することができます。
これらの美術館は、谷根千のひとつである、根津にあります。
東京大学の弥生門の斜め前です。
大正ロマンの代名詞のひとつである、『夢二式美人』画などの作品群を鑑賞して、束の間、昔にタイムスリップできました。
特筆すべき見どころ
まず、特筆すべき見どころの一つは、夢二作品の原画を鑑賞することができる点です。
そのため、作品を撮影することはNGですが、昔の時代の幻臭を感じさせる空気感漂う、独特の雰囲気で古き良き時代にタイムスリップすることができます。
夢二が作詞した曲も流れているから、余計に大正ロマンの空気感が醸しだされているのかもしれません。
次に特筆すべき見どころの一つは、今回の展示である『夢二をとりまく人間関係』から、夢二の恋愛遍歴がわかる上に夢二の思う、美人の定義がなんとなくわかるからです。
夢二の妻や恋人たちの写真が残されているのですが、皆一様にうりざね顔の美人揃いでした。
現代の世の男性が思う美人像と変わらない点が興味深かったです。
最後に特筆すべき見どころの一つは、お土産コーナーです。
ここに『夢二式美人』画のメモ帳やクリアケースなどが売られており、夢二好きのファンにはたまらない、ここでしか入手できないレアグッズが手に入るからです。
外国の方にもたまらない空間だと思います。
ちなみにカフェも併設されているので、鑑賞後に一息つけるのもよいですね。
まとめ
今回、かねてより訪ねたかった、根津の『竹久夢二美術館』を訪れて、あらためて芸術がわたしたちにもたらしてくれるものがいかにお金に換えられない価値があるか、わかりました。
夢二は数多くの媒体に作品を提供してきたためか、大衆に受け容れられたものの、当時の画壇には認められず、後世になって名を残しますが、それというのも夢二の芸術家の技量は、誰かに教わったものでなく、彼自身が独学で昇華させた芸術だからです。
その功績は大きなものとも思いますし、彼の不断なる努力に畏敬の念を覚えます。
ひとつのことを愚直に極めれば、やがては大きな偉業となるのですね。
このことはわたし自身にも励みとなるものです。
夢二に喝をいれていただいたような心持ちでいます。
ここまで、お読みくださり、ありがとうございました。